銀線細工・フィリグリージュエリーと透かしパーツの卸売・販売 プティ・マニス

       




ホーム 5-2 フィリグリーの歴史
wikipedia filigree(英語版)を訳して、抜粋した物を掲載します。
プティマニス専属契約工房オーナー、タジオ氏の訳です。タジオ氏によれば、これはヨーロッパ人(おそらくギリシャ人)が書いたものであろうとのこと。
かなりヨーロッパ寄り、ギリシャ寄りの話で、wikipediaの方でも、加筆修正が必要、とありましたし、わたしも眉つば?と思う点については省略しました。
(様々な歴史上のことから考えても、このフィリグリー技術・文化は、偶像崇拝を禁止するイスラム文化によって花開いて芸術の域に達したとみるのが一番合点のいく話ですが、そのあたりの記述はこちらではありません。
尚、こちらを訳してから、中世以降の全世界への伝播についてより詳しく書かれた書籍を見つけましたので、そちらを今後翻訳していく予定です。その書籍にあるコレクションの一部を抜粋掲載しておりますのでそちらも合わせてご覧ください。

  

フィリグリーの世界史

・・・wikipediaより



フィリグリーという言葉の由来



フィリグリーという語はラテン語で、糸を意味する"filum"と、粒を意味する"granum"に由来するもので、近世の合成語とされています。
しかしながら、スキート教授の見解では、スペイン語のフィリグラーナは「紡ぐ」を意味する"hilar"(元々はfilarと綴りました)と、「粒」或いは素材の肌理(きめ)を意味する"grano"に由来するとのことです。



古代ヨーロッパのフィリグリー



エジプトの装飾品製作者は線材を、背景への配置、及び編上げか透かし細工の構成に使用しました。然し、チェーンの場合は例外として、エジプト人たちがフィリグリーを作品に多用したとは言えません。
彼らの強みは どちらかというと、仕切り構成と飾り部分の鋳込み成型にあります。
とは云え金の細い糸を丸く編んだ古代のチェーン【現在でもインドの職人が作っている「トリチノポリ」(ティルッチラーッパッリ)チェーンと呼ばれるようなもの】が多数保存されています。これらの古代のチェーンには、更に細い線材で作られたチェーンが取り付けられていて、その端には魚やその他の形をしたミニ・ペンダントが揺れていました。

  
古代フェニキア人の宝飾品(それぞれ画像をクリックすると拡大します。素晴らしいので是非見てください)


キプロス島やサルジニア島等のフェニキアの遺跡から出土した飾り部分には、金線で作られた紋様が金の地肌の上に精緻な手法で配置されていますが、この種のフィリグリーが芸術としての完成の域に達したのは紀元前6世紀から3世紀にかけてのギリシャとエトルリア時代のことです。イタリア中部で発見された数多くのイヤリング及びその他の装飾品がルーブルと大英博物館に収蔵されています。それらの殆どがフィリグリー技法で作られたものです。イヤリングの内の幾つかは一重又は二重の縁を持ち金線の小さな渦巻できた幾何学的な花の形をしています。この種の装飾品は、渦巻の数と配置で変化を付けられています。
しかし、近世以降のイタリアのフィリグリーの花びらや羽根はこれらの古代のデザインには見られません。線材で作られたフィリグリーが金属板を使わない自己保持構造を持つ例が少ない乍ら存在します。

ロシアのサンクト・ペテルスブルグのエルミタージュ博物館にはクリミアの墳墓から出土した驚くほど多くの装身具のコレクションが所蔵されています。これらのコレクション中のブレスレットとネックレスの多くは捻られた線材で作られており、それらの内の幾つかは7列に編み込まれており、叩き加工で作られた動物の頭部の形の留め金が付けられています。そのほかのものは列状に並べられた大き目の数珠球のような金のボールで、それらのボールの表面には、装飾として渦巻、結び目及びその他の紋様に成型された線材が蝋付けされています。大英博物館には、ギリシャの巫女が使ったと思われる「笏」(スケープトロン)が収蔵されています。これは網状に編み込んだ金の線材で覆われ、コリント式の柱状部と緑色のガラス製粒状装飾で仕上げられています。



アジアのフィリグリー



インド及び中央アジアの様々な地域に於いて、フィリグリーは遥か古代からデザインを変えることなく作られてきたようです。
アジアの装身具細工が移り住んできたギリシャ人が齎したものか、はたまた単に職人達が偶々同じ伝統技術に基いて訓練されたのかは定かではありませんが、インドのフィリグリー職人が現在に至るまで古代ギリシャ人と同じ紋様を伝えており、同じ技法で製作を続けていることは確かです。

流離(さすらい)の職人達には鋳造された或いは未加工の金がふんだんに与えられ重量が計られた後、木炭の器で加熱され、叩いて線材にされます。そして、職人達は雇用主宅の中庭で芸術家のデザインに基いて作業し、完成した作品全体の重量がその芸術家によって確認された後製作作業の手間賃を支払ってもらいます。金の非常に細かな粒と猫の髯(ひげ)より少し太い程度の針を金の板から突き出させる装飾の技法が今も猶(なお)使われています。

インド東部のオリッサ州カタックも、フィリグリー製品の産地として有名です。しかしながらここでは、経済的な援助と新しいデザインを生み出す創造力に恵まれずフィリグリーは滅び行く芸術となりつつあります。殆どのフィリグリーは神と女神の像に終始しています。カタック産のアンクレットは頑なに古代からのデザインを守っているのに対し、ヘムラジの精緻なフィリグリーの一部は時代と共に変遷する芸術に合わせて作られてきました。



中世ヨーロッパのフィリグリー




ビザンチンのペンダント出典:Collector's Guides Costume Jewelry(画像をクリックすると拡大します。

時代を降ると、6世紀から12世紀にかけてコンスタンチノープルヨーロッパの修道院で作られた福音書等を保管するための聖遺物容器は中世の宝飾品(例えばビクトリア・アンド・アルバート博物館の所蔵品)として特筆すべきものですが、これらの作品に使われた技法とアイデアはビザンチン美術の技法(ビザンチン七宝と呼ばれる)を研究し模倣したものであることが判ります。
これらの作品はファセットにカットされてはいませんが研磨された多くの宝石が鏤(ちりば)められエナメルが多用されているだけではなく、しばしばフィリグリーで装飾されています。
その場合、金土台の表面の大部分は蝋付けされたフィリグリーの渦巻で覆われており、本の表紙の縁角部分や聖遺物容器の外板は大抵、線材を編上げた複雑な部材とエナメルで被われた部分を交互に配置して構成されています。

ビザンチンのフィリグリー製品には、曲線や結び目の中に小さな石を配置したものもあります。このような装飾の例は、ビクトリア・アンド・アルバート博物館及び大英博物館で見ることができます。

ヨーロッパ北部に於いては、サクソン人、ブリトン人及びケルト人達が早い時代から或る種の金細工製品について優れた技巧を誇っていました。金の土台上に線材で作った紋様を配置したフィリグリー製品がアングロ・サクソン族の墳墓から出土していますが、中でも素晴らしい作品例である、ドーバー出土のブローチカンバーランド出土の剣柄大英博物館で見ることができます。

アイルランドのフィリグリーは、如何なる時代或いは国のものよりも更に工夫を凝らし、紋様の多様性を持っています。その絶頂期はアイルランドの暗黒時代であったと推定されます。
ダブリンに在るアイルランド王立アカデミーが所蔵する数多くの聖遺物容器と個人用装身具には全てフィリグリーが主要装飾として使用されています。
「タラ」のブローチは複製と模倣され続けた結果、その形状と装飾は広く知られるところとなりました。
金糸の繊細なコイルや渦巻の代わりに、アイルランドのフィリグリーの多様性は、広い面の上に変化に富んだ独特の結び目と複雑な紋様を一本の金糸で形成しつつそれらが互いにバランスを保っているところにあり、金糸を一本ずつ辿って構成と配置を肉眼で見極めるのは困難です。長い金糸が途切れることなく見え隠れしながら続いており。その両端は大抵、大蛇か怪物の頭と尾を形成しています。
セント・パトリックの鐘を収容した聖遺物容器は、数多くのこの変化に富んだ結び目に覆われています。
1868年にリマリック付近で発見された「アーダーの聖杯」と呼ばれる二つの取手を持つ聖杯は、この類稀な繊細さを持つ技法で飾られています。椀部の周囲に帯状に取付けられた12枚の飾り板、各取手に取付けられた飾り板、及び脚部の周囲には繊細な線材でできた一連の特徴的な多様な紋様のフィリグリーが、打出し細工の地肌の上に配置されています。

15世紀に至るまでの中世に於ける全ヨーロッパの聖遺物容器、十字架、牧杖及びその他の宗教宝飾品の多くは、フィリグリーでできた装飾突起や縁部がそれらの荘厳さを引き立てています。




シルバーのフィリグリー製品

銀を使ったフィリグリー製品は中世のスペインムーア人達によって優れた技術を駆使して作られました。
そしてその技術はイベリア半島の隅々にまで紹介されて根付き、そこから新大陸のスペイン植民地に運ばれました。
17世紀から18世紀にかけてのスペインのフィリグリーは精緻を極めたものとなり、現在でもスペイン中でかなりの数量の繊細で芸術的なデザインの銀フィリグリー宝飾品が作られています。
そして、銀フィリグリーはバレアレス諸島及び地中海沿岸に住む人々に広がり、現在でもイタリア全土ポルトガルマルタマケドニアアルバニア、及びギリシャではイオニア諸島やその他の多くの地方で製造されています。

ギリシャの銀フィリグリーの中には大型の作品もあり、大小様々な半球形並びに球形装飾に合わせて数種類の線径を使用し、時にはターコイズ等を伴って凸面形の板材に取り付けられ豪奢な冠や兜等の頭飾り、ベルト及び胸飾りを構成しています。このような宝飾品を生産する殆どの国々では、線材と小さな半球形部品で作られた フィリグリーのボタンを農民が使用しています。

銀フィリグリーのブローチとボタンは、デンマークノルウェー及びスウェーデンでも作られており、これらの北欧の製品の多くには小さなチェーンとペンダントが取り付けられています。
マグダラ守備隊の拿捕の後、スリッパ、カップ等の幾つかの非常に奇妙なフィリグリー製品がアビシニアから齎され、現在ビクトリア・アンド・アルバート博物館にその一部が収蔵されています。
それらは薄い銀板の上に線材で作られた装飾を蝋付したもので、単純な紋様の細い縁で区分けされてできた空間を多様な文様を描くフィリグリーが占有しており、小さな隙間に銀粒を配置したものもあります。



その他フィリグリーについての資料・作品展示



この工芸技術は、折り曲げることができる金属の細い糸を巻き、捻り、編むことでできた複数の部品を適切な接合部で金蝋、銀蝋及び硼砂で吹管を使用して互いに接合し、それらを更に基盤となる母材に接着することで構成されます。多くの場合、同じ金属の小粒又はビーズが、渦巻の中心、接合部、或いは線細工が効果的に引き立つような隙間に取付けられます。これらの中でも繊細なものは、一般的により頑丈な線材でできたフレームで保護されています。

現代のフィリグリー製ブローチ、十字架、イヤリング及び装身具では、一般的に角断面或いは平断面の構造材で取り囲まれ、分割され、形状維持に不可欠な隙間部分の強度を保つ役目を果たしています。

古代の工芸作品の例について知るためには、大英博物館の金装飾品の部屋、ルーブル美術館及びビクトリア・アンド・アルバート博物館で調べるべきでしょう。
中でもビクトリア・アンド・アルバート博物館は、イタリア、スペイン、ギリシャ及びその他の地域で作られた多岐の渡る近代装身具の数多くのセットだけでなく、ステラーニやジュリアーノの手に成る興味深い近代工芸作品も所蔵しています。
ケルトの作品はダブリンに在るアイルランド王立アカデミーでその見事な展示を見ることができます。



グラニュレーション(金属粒を使った工芸)の作品



捩り/巻き線細工を上記の通り全く含んでいないにも拘らず、幾人かの著作家によって「フィリグリー」として分類されてきたグラニュレーション細工について少し解説しておきます。

この装飾技法は、金属表面上に金の微小粒を溶着させ、紋様を形成するものです。
この技法は、ロードス島のカメイロスで出土した紀元前7世紀の装飾品にも見られます。然乍ら、これらの微小粒はエトルリアの装身具に見られるものと比べて大きく、エトルリアとギリシャの古代装身具を専門研究課題として選び、古代の作品の再現・複製を目指したカステラーニ氏は長い間、その繊細な溶着の特殊な技法を再現・復活することは不可能であると考えていました。
それでも、ヴァードのサンタンジェロにある伝統工芸職人訓練学校が発見した手法により、ついに彼はこの難題を克服し、この訓練学校の協力を得て彼の有名な複製の政策が実現しました。







脚注・・・・・・

1:ビザンチン七宝・・・これは黄金の土台の上に金線を融着させ、その上に粉ガラスを置いて熱し、研摩するもので、ビザンチン美術の傑作として名高いものです。
ビザンチン七宝は「エンコルピア = 七宝製十字架」以外では、王冠や聖遺物容器の装飾にも用いられました。
900年前後には技法がかなり洗練されるようになり、さらに後には大型の作品が見られるようになりました。こうしたビザンチン七宝の最高傑作とされているのが、西暦968年に製作されたといわれる『リンブルクの聖遺物容器』です。

2:マグダラ守備隊の拿捕・・・アビシニア、即ち現在のエチオピア、の皇帝テウドロス二世を自殺に追い込んだ英国とアビシニアの戦いに於いて、1868年ネイピア将軍の率いる英国軍はアビシニア軍の最後の砦があったマグダラ台地を攻略し、これを攻め落としました。テウドロス二世は嘗てビクトリア女王から送られた美しい装飾付の拳銃で自らの頭を撃ち抜き絶命しました。

3:グラニュレーション・・・(プティマニス解説)よくフィリグリーと一緒にされる、バリビーズはグラニュレーションという技法で作られています。こちらはフィリグリーよりは大量生産が可能な製法で作られています。





◆参考◆

    ▲ Go To Top Menu